
↓《初夏の海に赤翡翠》 昭和37年(1962)頃 絹本墨画着色
ともに田中一村記念美術館蔵Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama

本名は田中孝、栃木県に木彫家の父田中稲邨の長男として生まれ、東京市で育つ。1926年、芝中学校を卒業後東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。同期には東山魁夷、加藤栄三、橋本明治、山田申吾らがいる。しかし、学校の指導方針への不満や父の病気などで同年6月には東京美術学校を中退。南画を描いて生計を立てる一方独学で新しい日本画を模索し始めた。『大正15年版全国美術家名鑑』には父からもらった田中米邨(たなかべいそん)の名が登録されている。彫刻家の父を27歳でなくし、1938年29歳のとき親戚を頼ってで東京から千葉の千葉寺に移り住み、農業をしながらその周辺の四季折々の風景を描きながら新しい画風を探していた。
1947年、『白い花』が第19回青龍社展で入選。柳一村と画号を改めたのはこの時からである。その後も院展への出品を目指し、制作を開始するが落選が続く。それでも屋敷の壁画や襖絵などの大きな仕事を依頼する支援者には恵まれて山水画と花鳥画の融合を試みたり、九州や四国、紀州へも旅して画業は続けられた。旅先から支援者へ色紙の風景画を送っていることから、

↑《アダンの海辺》 昭和44年(1969)絹本着色 個人蔵 Ⓒ2024 Hiroshi Niiyama
↓同作品展示風景

奄美行きを決意し、1958年12月に到着した一村はその後この奄美大島で染色工や紬工場の仕事などで制作費の捻出や生計を立てながら雄大な自然の中で一心に絵を描いていた。一時千葉に戻ったが、最後は奄美大島の一軒家で無名のまま古希を前に69歳で死去。最後まで願っていた個展が開催されることはなかったが、落款も押せないくらい精力を傾けて描いた《アダンの海辺》や『100万円出されても売らない。魔大王へのみやげ…』と称するほど入れ込んだ作品《不喰芋と蘇鐵(くわずいもとそてつ)》は画家の晩年の代表作の一つとなった。
本展覧会は、画家田中一村の神童と称された幼年期から終焉の地である奄美大島で描かれた最晩年の作品までその全貌を紹介する大回顧展である。
中央画壇の華やかな栄達とは無縁ななかで、全身全霊をかけて作品を描いた作品と生涯。自然を主題に描かれた作品は、不屈のの情熱の結晶であり、南国の光のなかで画家の魂の輝きを宿している。会場では、奄美の田中一村記念美術館の所蔵品をはじめ、代表作を網羅し、近年発見された資料を多数含む作品構成により、また現在の奄美の美しい風景を4Kの画像で画家の画業と魂を紹介するものである。「第1章 若き南画家の活躍 東京時代」、「第2章 千葉時代」、「第3章 己の道 奄美へ」の3部構成。近年発見された新資料や初公開の作品、前述の奄美で描かれた代表作《不喰芋と蘇鐵くわずいもとそてつ》、《アダンの海辺》はじめ、未完の大作ほか代表作品ほかスケッチ・工芸品・資料を含めた250件を超える作品が紹介される。画家が望んでいた展覧会は、死後2年後の3回忌に奄美の人びとにより奄美で3日間開催された。それをまず地元メディアが、次に中央のメディアが注目し、1980年代にようやくスポットが当たった。そしてさらに約40年後、画家が2か月過ごした旧東京美術学校(現東京藝術大学)のある上野の東京都美術館で大きな回顧展が開かれている。










